写真家ポール・セスコー Paul Sescau

サラ・ベルナールにはミュシャが、アリスティッド・ブリュアンやジャンヌ・アヴリルにはロートレックと、その人物像を特徴づける作品があるように、ロートレックにもロートレックの風貌を特徴づける作品があります。ただしその作品は絵画やポスターではなく、山高帽に眼鏡をかけステッキを持ち右手を軽くポケットにいれた写真になります。

 

映画や書籍など様々な所で使用、もしくはモデルにされるこの写真は1894年に撮影されました。

撮影したのは、ロートレックの友人であるポール・セスコー。ポール・セスコーはプロの写真家でロートレックの他にもジャンヌ・アヴリルを撮影しています。

 

 

この2枚の写真と同じ構図をロートレックもポスターで描いていますので、この写真はロートレックがセスコーに依頼した可能性もあります。

 

 

写真家セスコーのスタジオはパリのピガール広場にありました。ピガール広場はモンマルトルにある歓楽街で、近くにムーラン・ルージュやキャバレーシャノワール(1897年に閉店)があり、現在でもとても賑やかな場所です。セスコーはピガール広場のスタジオの広告ポスターをロートレックに依頼しました。

 

 

1896年(もしくは1894年)の作成されたこのポスターはロートレックの作品にしては珍しく横長の作品です。

右のカメラを構えて顔が隠れている男性がポール・セスコーで、左の女性は写真から逃げるようなしぐさをしているようにも見えます。これは、セスコーが好色家で有名であったことへのロートレックの皮肉で、さらにセスコーの好色を表すかのように、冠布(カメラ後方の遮光布)が両足の間にたれ男性の象徴を表現しているといわれています。

友人のポスターにも皮肉たっぷりの作品を作成したロートレックですが、このポスターにはもう1つバージョン違いがあります。

 

 

黄色の仮面つけている女性がこのポスターでは素顔をさらしています。この2枚のポスターはどちらが先でどちらが修正後なのかは研究書でも分かれておりわかりませんが、仮面をつけていない2枚目の方は写真に写るためにポーズを決めているようにも見えます。現存枚数も2枚目の方が多いので、2枚目はセスコーに頼まれ修正したのではないでしょうか。

 

実はこのようにポスターにはいろいろなバージョンがあるものがあります。少しの違いでも全体の印象が大きく変わり、その印象の変化や変化の背景などに思いを巡らすのもアンティークポスターの楽しみです。

 

 

アドルフ・レオン・ウィレット Adolphe Léon Willette 1857〜1926

アドルフ・ウィレットはフランスの画家・イラストレーター・風刺画家です。ウィレットはベルエポックのパリ、特にモンマルトルの文化を代表する人物の一人ですが、その功績はポスターや風刺画よりもムーラン・ルージュの風車のデザイン、キャバレーシャ・ノワールの看板のデザインなどで知られています。残念ながらウィレットのデザインした風車は1915年の火災で焼失してしまいましたが、シャ・ノワールの看板は残されておりパリのカルナヴァレ美術館で観ることができます。

 

(シャ・ノワールの看板)

 

ウィレットはフランスのシャロン=アン=シャンパーニュ出身で、パリのエコール・デ・ボザールでアレクサンドル・カバネルに師事し、1882年にモンマルトルに移り住みます。フランスのユーモア作家・風刺作家として才能を発揮したウィレットは、コメディ、悲劇、日常の些細なこと、政治的な風刺など、様々なモチーフを題材にしました。 ルドルフ・サリやエミール・グドーに誘われ、キャバレー「シャ・ノワール」の初期のメンバーとなったウィレットは、1882年にキャバレー「シャ・ノワール」の機関紙ジャーナル「シャ・ノワール」にピエロ・フュミスト(ふざけたピエロ)を掲載し、作中に登場するウィレットの描いたピエロはウィレットを代表するキャラクターとなります。さらに、シャ・ノワールの看板や内装のデザインも手掛け、特に三日月に乗った黒猫の看板と油絵「パルス・ドミネ」はシャ・ノワールを象徴するものとなります。油彩「パルス・ドミネ」は現在モンマルトル美術館で展示されています。

 

(パルス・ドミネ 1884年)

 

この成功を受け1889年には、ムーラン・ルージュの設計を頼まれます。モンマルトルを代表するあの有名な赤い風車はウィレットのデザインで、風車の羽根が回るリズムに合わせ風車の窓から粉ひきの男と女が現れては消える仕掛けがあり、内装はダンサーのための木製の大きなフロアーやオーケストラのため中二階、そして余興やショーのための小さな舞台を設計しました。

 

ウィレットのデザインした当時のムーラン・ルージュ)

 

 

(矢印の場所に粉ひきの男女の仕掛けがあります)

 

その後もクーリエ・フランス誌やル・リール誌などに精力的に作品を発表し1926年に68歳で亡くなります。モンマルトルを代表する人物だったことを表すように、1927年にモンマルトルの新しい広場をウィレットにちなみウィレット広場と命名されました。場所はサクレクール寺院へ向かう急な坂の広場(現在のルイーズ・ミッシェル広場)で、観光スポットとしても人気の場所です。

 

 

1882年のジャーナル「シャ・ノワール」に掲載されたピエロ・フュミスト(ふざけたピエロ)、このピエロはウィレットの代名詞となり、ロートレックやフランティセック・クプカなどがウィレットを表現するときに描いています。

ウィレットの描くピエロ

 

 

ロートレックが描いた、雑誌「ラ・ヴァシュ・アンラジェ」(怒れる牝牛)のポスター。この雑誌はウィレットが創刊した雑誌で、左の自転車にピエロが乗っています。

 

 

フランティセック・クプカが描いたシャ・ノワールを代表する人物、右のピエロの台座にウィレットの文字が、左の黒猫の台座にはスタンラン、そして左の玉座に座っているのがルドルフ・サリです。

 

 

ウィレット広場(現在のルイーズ・ミッシェル広場)

 

アンコエラン派(Les Arts Incohérents)とは

アンコエラン派は、1882年にパリの作家ジュール・レヴィJules Lévy(1857-1935)によって設立されたフランスの芸術運動。Les Arts Incohérentsはレ・ザール・ザンコエランと読み、「支離滅裂な芸術」を意味します。アート&クラフトやパリの有名な美術学校、国立装飾美術学校などに代表される装飾芸術に対抗して作られ、非合理的で無秩序な作品を好み、ナンセンスやユーモアなスケッチ、工芸品、子供の絵、絵画の教育を受けていない人々が描いた作品などを発表しました。レヴィは1878年にジャーナリストや詩人でもあるエミール・グドー(1849〜1906)が結成し、ユーモア雑誌「イドロパット」(水治療法)を発行した文学者集団レ・ジドロパット(水治療法派)のメンバーでした。イドロパットとはフランス語で水治療法のことを指しますが、グドーは「酒を愛し水を毛嫌いする」精神と皮肉をこめ、水治療法派と名付けました。

 

図1(1882年10月のアンコエラン派の展覧会の招待状、絵の作者はアンリ・ブーテ)

 

しかし、このレ・ジドロパットは1880年に解散しレヴィやグドーなど大半のメンバーはキャバレー「シャ・ノワール」のメンバーになります。

アンコエラン派を有名にしたのは、1882年10月の展覧会です。展覧会の会場はアントワーヌ・ デュボア通りにあったジュール・レヴィのアパートで行われ(図1参照)シャ・ノワールの新聞にも掲載されたこの展覧会にはエドゥアール・マネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、リヒャルト・ワーグナーを始め2000人以上の観客が集まり大盛況となり、その後翌年の1883年から1893年まで不定期にパリや郊外などでアンコエラン派の展覧会が行われます。

しかし1890年代に入り、パリがベルエポックと呼ばれるアール・ヌーヴォー全盛の時代になるにつれて徐々に衰退し1896年を最後にレヴィはアンコエラン派を諦めます。翌年1897年にはキャバレー「シャ・ノワール」も閉店し、モンマルトルの文化の中心はムーラン・ルージュなどに移っていきました。

アンコエラン派の活動時期は短い間でしたが与えた影響は大きく、ジュール・シェレの1884年のアンコラン派の展覧会のポスターはジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」や「不可能を通る旅」(図2・3・4参照)に、サペックの描いた「パイプを咥えるモナリザ」で30年後にマルセル・デュシャンの描いた「L.H.O.O.Q.」(エラ・ショ・オ・キュー)髭が描かれたモナリザに影響を与えています。アンコエラン派に所属していた主な画家や作家は、カトゥーン・アニメの創始者エミール・コールやアンリ・ピル、アルフォンス・アレーなどが上げられます。

 

アンコエラン派の展覧会1886年

(図2) 1886年に開催されたアンコエラン派の展覧会のカタログ、月に向かって飛び込んでいる人物はアンコエラン派の創始者ジュール・レヴィ、絵の作者はジュール・シェレ)

 

(図3・4) ジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」と「不可能を通る旅」

 

(図5) 1889年のアンコエラン派の展覧会のポスター、絵の作者はジュール・シェレ、このシェレの描くクラウンの頭のモチーフはジョルジュ・スーラなど他の画家に影響を与えます。